↓東京時代まつり
↓白鷺の舞(しらさぎのまい)
↓七五三加持会(しちごさんかじえ)
↓酉の市(とりのいち)
↓熊手
3日 文化の日

東京は太田道灌の江戸城構築から約540年、徳川家康の江戸入府以来約400年の歳月を数えますが浅草はそれより古く1367年の昔、西暦628年に隅田川から示現した観音様がこの地に祀られてから、浅草寺を中心とする独自の地域社会を形成し、特に江戸時代に入ってからは、江戸の庶民文化の中心として栄えて参りました。今でも浅草は江戸の名残を最も色濃く宿す町として、多くの人々に愛されており、東京の代表的下町として、全世界の人々の人気を博しておりますが、平成元年11月3日、21世紀に向かう世界都市・東京の中にあって東京の歴史と文化の原点は浅草である、との事実を鮮明にする事により浅草の存在と独自性を樹立するため、「東京ルネッサンス」に呼応し、永年の念願であった江戸・東京の歴史絵巻を「東京時代まつり」と銘打ちこの浅草の地においてはじめて挙行したものであります。
3日 文化の日

白鷺の舞は慶安5年(1652年)の「浅草寺慶安縁起絵巻」の祭礼行列の中にある「鷺舞」の姿を浅草観光連盟が昭和43年に東京百年の記念行事として復興したものです。鷺舞の神事は京都・八坂神社の祇園祭りが起源で千百年以上の昔から悪疫退散の為に奉納伝承され、非常に盛んであったと云われますが、いつしか中絶し、やがて慶安2年(1369年)に大内引世が京都から山口に八坂神社を勧請建立するにあたり山口の祇園祭りの神事として登場させ、更に天文11年(1542年)島根県津和野の城主吉見正頼が山口から移し今日では全国的に有名ですが、浅草寺の「白鷺の舞」は京都の正統を基本に慶安縁起の遷座供養祭礼行列を復元したもので、武人3名、棒ふり1名、餌まき1名、大傘1名、白鷺1名、楽人19名、守護童子、その他、「白鷺の唱」を演奏しながら舞い、ねり歩く。浅草寺境内では、毎年4月第2日曜日と11月3日に奏演されるれ平安時代の風俗を眼のあたりに見ることが出来ます。
11月中 本堂にて

本堂内陣の観音様のご宝前で子供さんのすこやかな成長と健康を祈念するお加持を行っております。これは「牛玉宝印」(ごおうほういん)観音宝印を子供の額にあててご本尊の観音様とご縁を結び、そのご慈愛を頂戴するというものであります。
酉の日

おとりさま」とはこの鷲神社の愛称であり、その例祭は昔は酉待、酉祭といわれ、祭りの日を意味しておりましたが、葛西花又の大鳥神社の酉の市の如く、祭りに付随して市がたつ様になり、次第に賑わいを呈してからは、酉の市とか、また市自体も「おとりさま」と愛称をもっていわれる様になりました。 その賑わいは江戸中期より始まったらしく、東都歳時記(天保9年刊)に下谷田甫鷲大明神は天保3年(1832)よりおよそ60年余り前から賑わったと記されておりますので、江戸中期の宝暦、天保(1750~1760)頃には相当有名だった様であります。俳人其角の句にも「浅草田甫、酉の市」として「春をまつことのはじめや酉の市」の句があります。

鷲神社は昔から開運、商売繁盛の神として尊崇され、神社の熊手御守は「かっこめ」と呼ばれ、「かっこむ」、「とりこむ」などの縁起から江戸町民の人気をあつめ、それにつれ例祭当日、神社周辺には大小様々の縁起ものの熊手を商う業者が出店し、熊手も大きく美麗になって、現在200余店が出店しています。この神社の裏手には日本最大の歓楽境“吉原”があったので、吉原華やかなりし頃の「おとりさま」は正に東京随一の人手を見る大市でありました。 11月の第一番目の酉の日を一の酉、第二番目の酉の日を二の酉と呼び、年により三の酉まで市の立つ年がありました。江戸市民は「おとりさま」に詣でる事により、冬の訪れを感じ、冬支度を急ぐのでした。また、市の日売られる八つ頭の芋は「頭になる」「子が殖える」などの縁起から、あわもち、切山椒なども夫々縁起をかつぎ、昔から販売され愛用されています。