浅草散歩

落語コース 所要時間2時間

このコースは浅草にゆかりの深い娯楽のひとつである「落語」がテーマですが、その他のエンターテイメントのエッセンスも加えたコース設定となっております。

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雷門

雷門周辺にはかつて寄席「並木亭」や「大金亭」があり又、吾妻橋との間には義太夫寄席「東橋亭」もあった。震災後は並木亭が貸席として復興し、昭和20年頃まで続いた。雷門から仲見世・仁王門・五重塔界隈は落語“おふかい”“傾城瀬川”“粗忽長屋”“付け馬”“仁王か”等々に登場する場所である。雷門(風神・雷神門)は天慶5年(942)の創建、慶応元年(1985)焼失し、昭和35年松下幸之助氏の寄付で再建したものです。

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浅草寺

浅草寺は“後生鰻”“粗忽長屋”“船徳”“ぼんぼん唄”“やかん”ではお詣りの対象であり、境内には“がまの油”などの大道芸人が昭和後期まで多かった。右裏手の弁天堂(通称弁天山)には“野晒し”に出る元禄5年(1692)鋳造の時の鐘や都々逸塚・芭蕉句碑・扇塚などがある。本堂右手に三社祭りでにぎわう浅草神社があり、境内には御神木の“槐(えんじゅ)の木”がある。

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3

喜劇人の碑・映画弁士塚

浅草寺左手のこの地域は昔、奥山と呼ばれ江戸時代より見世物小屋や茶店が並んでいた地域でこの裏手にはおなじみ“花やしき”がある。喜劇人の碑には戦前戦後に活躍した喜劇人達の名が又、映画弁士塚には無声映画時代の往年の名弁士たちを記念して昭和33年建立、碑名は鳩山一郎著。近くには曾我廼家五九郎氏の“ノンキな父さん”の塚や、捕り物小説生みの親、岡本綺堂を記念した“半七塚”などなど。この“新奥山”内に、二十数個の塚・碑がある。

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木馬館・木馬亭

新奥山から六区へ向かう通りが“五重塔通り”で浅草でも昔の風情を感じる通りである。途中にある木馬館(2F)は昭和52年まで安来節(どじょうすくい)を常打ちしていたがそれ以降は大衆演劇場として根強い人気にささえられている。又、1Fの木馬亭は浪曲席だが月に10日を“お笑い21世紀”としてベテラン・若手の漫才師たちの常席となっている。すぐ前の前田食堂のテーブルで“煮こみ”や“おでん”でビールを片手にながめているといつのまにか戦後の浅草にタイムスリップした様に感じてしまうだろう。

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浅草六区興行街・浅草演芸ホール・フランス座

浅草六区興行街
五重塔通りを進むと広々とした通りに出る。この通りが通称“映画館通り”かつての浅草六区興行街である。明治から大正・昭和を通し演劇やオペラその後、喜劇・映画と時代と共にその時代に一世を風靡した役者などを育てながら繁栄した興行街である。昭和末期から日本映画の衰退と共に撤退した映画館もあるが、今も十軒近くの劇場があり、撤退した映画館跡地は、ROXビルなどの若い人達に人気の複合ビルも出来賑わっている。長年閉鎖中だった大勝館も新しく大衆演劇の拠点として再生され、壁には戦後から現在も活躍中の浅草から生れたスター達(喜劇役者)の写真が飾られ懐かしい顔がみられるのも楽しい。

浅草演芸ホール・フランス座
この地域には昭和11年から戦中まで講釈・浪曲席で営業した“金車亭”その前は“江戸館”明治末には“浅草鈴本”があった。戦後も映画館・演劇場として日本館・電気館・千代田館など20軒以上があった。昭和39年開場の“浅草演芸ホール”は今も寄席として営業中である。となりのフランス座(現、東洋館)は先年までストリップ劇場として長年愛され続けたところで、ビートたけしは幕間のコントで若い時代にこの劇場で育った喜劇人です。又、渥美清や萩本欽一も彼と同様に、浅草で苦労を重ね成功し、活躍した人達です。

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国際通り

“演芸ホール”から間もなくいくと大通りに出る。ここが旧国際通り。近年ビートストリート(ビートたけしからとった名称です)この通りには戦後“浅草末廣亭”や“美人座”などがありましたが昭和30年頃閉館。又、右手の高層ビル(現、浅草ビューホテル)は以前の通りの名ともなった国際劇場があったところで、松竹少女歌劇団(S.K.D)が活躍した劇場で当時5000人の東洋一の劇場として、多くのファン達を集めていました。

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7

TEPCO(東京電力浅草館)

ビートストリートを渡った角がすき焼きでおなじみの浅草今半まっすぐ入ると右手にどじょうでおなじみの飯田屋があり、その前にTEPCO浅草館がある。この2階には浅草文庫があり、浅草にまつわる書物が収められています。(文庫内での閲覧は自由です)又、同館には戦後の浅草六区興行街を再現した街並(浅草下町ストリート)があり、当時の浅草を知ることができる異空間がある。

TEPCO(月曜休館・入場無料)

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宗恩寺

TEPCOを出て左へ進むと右手に喫茶“ピーター”がみえる。ここの室内の壁には“黄金バット”を作った加太こうじ(作家としても活躍)が昭和30年に“浅草ビックパレード”と題して戦後浅草を中心に活躍した喜劇人や俳優が描かれている。東京本願寺方面へすすむと宗恩寺があり、ここは江戸末期に落語睦連の初代頭取りになった三代目麗々亭柳しょう・同四代目・同五代目又、明治初期講談組合頭取でもあった二代目桃川如燕一家の墓所でもある。このあたりにはかつて誓願寺という大きな寺があり“唐茄子屋政談”の貧しい親子に若旦那の徳三郎が金を恵むところである。

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はなし塚(本法寺)

宗恩寺の前を進み浅草通り(特にこの界隈は仏壇・仏具店が多いので仏壇どおりとも呼ばれている)を渡ってすぐ左側に本法寺がある。ここには、戦時中艶笑落語53題を葬った“噺塚”(はなしつか)があり寺の外堀には昭和29年当時の寄席と落語家の名前が彫られている。同境内にはかつて浅草寺境内にあった熊谷稲荷も移築されている。本法寺を出て終点の田原町駅(地下鉄銀座線)へむかうとすぐ手前にかつて雷門前にあった並木亭の孫が営む下町中華食堂“なみき亭”がある。店内の昭和レトロな飾り物や昭和・大正の浅草の絵はがきなど見ながら今日の散策話に花をさかせるのも一興ではないだろうか。

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