名所旧跡

浅草全体

駒形堂

(浅草寺発祥の地-こまがたどう-)
駒形堂

駒形堂は浅草寺のご本尊が隅田川から示現され、上陸された地に建てられたお堂で、ご本尊「馬頭観音」が祀られております。毎月19日がご縁日。

浅草観音戒殺碑

聖地により殺生禁止(あさくさかんのんかいさつひ)
浅草観音戒殺碑

駒形堂の横に建つ「戒殺碑」、このあたりは観音様がご示現された場所により、魚を捕ってはいけませんという石碑なんです、元禄6年(1693)三月建立、撰文は浅草寺権僧正宣存。この碑が出来る前から今で言う禁漁区だった様であります。関東大震災の後、土に埋もれていたものを修復建立した江戸時代の現物です。今では秋になるとハゼ釣りなんかしてますがいいのかねぇ。

雷門

-浅草寺の総門-「雷も諸国へひびく名所なり」
雷門

雷門正しくは「風雷神門」と呼ぶ。天慶5年(942)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建され当初は駒形堂付近にあったが、鎌倉期以後、今の場所に移された。門の右に風神様、左に雷神様が祀られているがいつしか、雷門と呼ばれるようになった。江戸時代の川柳に「門の名でみりゃ風神は居候」「風の神雷門に居候」などと詠まれている。雷門は江戸時代の寛永・明和・慶応に三回焼失し、浮世絵に見る「しん橋」とある提灯は寛永7年(1795)に完成の折り、門の屋根を葺いた屋根屋三左衛門が雷門の中の間表に奉納したものである。中の間裏の提灯は御高盛講中の世話人が奉納、風神・雷神の前に二張奉納したのは、松葉屋半左衛門、その裏に二張奉納したのは歌舞伎役者の中村勘三郎。惜しくも慶応元年(1865)に焼失し、現在の雷門は95年後の昭和35年5月3日再建された。

浅草文化観光センター

浅草文化観光センター

台東区立浅草文化観光センターは浅草寺を中心とする浅草地区の文化的遺産の保護・再発見に努めるとともに広く全国に紹介するための施設で、海外から訪れるお客様にも、浅草が持つ特有の庶民文化、また、その故事来歴等も紹介し、東京における個性豊かな文化を理解していただく施設でもあります。下町浅草の歴史文化散策の休憩としてもご利用下さい。トイレ完備。

浅草文化観光センターが建て替えのため、2009年7月26日で閉館。7月29日から仮案内所(雷門2-19-10)に移転。
新しい建物は2011年12月中旬頃の完成予定です。

スターの広場

浅草文化観光センター

浅草公会堂入口前に、歌舞伎・演劇・落語・漫才と大衆芸能の分野で多くの人々に愛され親しまれ浅草ゆかりのスターの手形とサインが並べられています。ご贔屓の方はどんな手相をされていますでしょうか?

河竹黙阿弥顕彰碑

(かわたけもくあみ)
河竹黙阿弥顕彰碑

河竹黙阿弥は1816年に日本橋の質商に生まれた、歌舞伎狂言作者の第一人者である。19歳で芝居脚本家を志して五世鶴屋南北に入門、28歳で二世河竹新七を継承する。天保の改革によって江戸三座が猿若町へと移転するに伴い、浅草観音境内の正智院地内に居を構えてからの約40年間を創作活動に費やした。つまり黙阿弥の創作活動の殆どが浅草で、生涯360編にものぼる作品を残している。上野や浅草を題材にしたものも多いのだが、「河内山」や「直侍と三千歳」は有名。のちに坪内逍遥は黙阿弥を「日本の沙翁」と称賛している。

銀座線田原町駅ホームの芸能紋

銀座線田原町駅ホームの芸能紋

銀座線田原町駅ホームの中央に「田原町駅芸能紋について」と題して、昭和2年浅草-上野間に東洋初の地下鉄が開通したとき、「浅草の玄関口に趣を添えるため」と当時の花形役者の家紋をホームに掲げたいきさつが記されている。浅草行・渋谷行ホーム両方あわせて36の家紋と役者名の入ったプレートが並んでいます。

はなし塚

はなし塚

本法寺の境内にある落語にちなんだ珍しい石碑。当時国は戦時下にあり、各種芸能団体は演題科目について自粛を強いられていた。落語界でも演題の花柳界、酒、妾に関する落語53種を禁演落語として発表。この中には名作といわれた「明烏」「五人廻し」「木乃伊取り」などが含まれていた。はなし塚は、これらの名作と先輩の霊を弔うため、昭和16年10月、講談落語教会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもの。禁演となった落語の台本などが納められた。戦後の昭和21年9月には、塚の前で禁演落語復活祭が行われた。

宗吾殿

(そうごでん)
宗吾殿

宗吾殿は江戸時代の義民で知られる下総国(千葉県)佐倉公津村の名主、惣五郎(宗吾)を供養する堂である。惣五郎は江戸初期承応年間(1652~1654)佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のため、藩主堀田正信のとき、直訴を図った罪により処刑された。 後年佐倉藩の藩主は惣五郎の霊を絶えず弔い、百回忌などの法要を営んでいる。その後堀田正信の子、正休の家系である近江国宮川藩堀田家の屋敷地となり同屋敷内に建立したものである。享和5年(1803)に惣五郎百五十回忌法要を営んでおり、堂もこのころの建立したものと考えられる。江戸時代末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材となり世に広く知られた。

岡崎屋勘六の墓

(おかざきやかんろく)
岡崎屋勘六の墓

西浅草一丁目にある清光寺に、岡崎屋勘六(文化2年2月3日、59歳で没)の墓がある。勘亭流元祖といわれる勘六は、延亨3年に江戸に生まれ、日本橋で書道塾を開いた。号を勘亭といいい、安永8年に中村座新春狂言の看板を書いたことが評判を呼び、芝居文字は勘亭の書いた文字(勘亭流)でということになっていった。

久保田万太郎生誕の地

(くぼたまんたろう)
久保田万太郎生誕の地

久保田万太郎は明治22年11月7日この地に生まれ市立浅草尋常小学校へ入学、府立三中に学び大正3年慶應義塾大学文科を卒業し、10月移転する迄の26年間在住した。昭和38年5月6日永眠するまでの明治大正昭和の三代に亘り、常に下町の義理と人情を描写した小説、戯曲の作品多く、文学・演劇界に多大な功績を残した作家。昭和52年8月地元有志にて建立、題字、内山栄一台東区長。

世界の太鼓資料館

世界の太鼓資料館

浅草神社の本社神輿を造った宮本卯之助商店が西浅草店4階に珍しい世界の太鼓や資料を展示しております。入館の際はお店の方にお声がけすれば見せていただけます。

池波正太郎記念文庫

池波正太郎記念文庫

上野・浅草を故郷とし、江戸の下町を舞台にした「鬼平犯科帳」など、時代小説の傑作を多数発表した、池波正太郎さんの業績や作品を広く伝えるため、池波家や多くの方々のご協力で、平成13年9月26日に開設されました。全著作本・自筆原稿・遺愛品・自筆絵画など、池波正太郎ファンには必見の品々が展示されており、時代小説コーナーは直接手に取って見ることも出来、池波正太郎記念文庫グッズも販売されています。

生涯学習センター
台東区立中央図書館内 一階
http://www.taitocity.net/
〒111-8621 東京都台東区西浅草3-25-16
TEL03-5246-5915 / FAX03-5246-5914

浅草文庫・浅草巧芸館

テプコ浅草館
浅草文庫・浅草巧芸館

懐かしい戦前の浅草の雰囲気にひたることの出来る体験空間。無声時代の映画や大衆芸能などの娯楽の殿堂浅草にふれることが出来ます。浅草に関する展示観覧、書籍や資料を閲覧できる浅草文庫もございます。

江戸下町伝統工芸館

江戸下町伝統工芸館

台東区の手仕事に生きる職人さんの技術・技法をご紹介する文化施設です、下町の歴史と風土の中で生まれ受け継がれてきた本物の技をご覧下さい。実演も行われておりますので、台東区産業課のホームページで日程をお調べの上ご来観下さい。

猿之助横町碑

(えんのすけよこちょう)
猿之助横町碑

碑は、昭和36年に地元人をはじめ、浅草観光連盟の人々によって、戦災で焼失したものを再建したものだ。二代猿之助の猿翁(本名・喜熨斗政泰)は、明治21年5月10日に浅草で生まれ、以来ずっと浅草で育った。当時は周辺に民家もあまりなかったが、次第に家が建つようになると、この辺りは猿之助のいる横町と呼ばれるようになった。現在の浅草3丁目にあたるここには、当時、宮戸座という有名な芝居小屋があり、猿翁の父(二代段四郎)をはじめ、猿翁自身も明治25年に初舞台を果たし、団子時代には良く出演していたそうだ。

鷲神社

(おおとりじんじゃ)
猿之助横町碑

祭神天日鷲神日本武尊。日本神話によると、天照大神が天の岩戸にかくれ、国中が闇となった時、天照を岩戸から誘い出すべく、天宇受命が舞をまい、天手力男命が力にまかせ岩戸を開けましが、天日鷲命はこの天手力男命の息子で、この時、弦という楽器を司っていました。その弦の先に鷲が止まったので、世の中を明るくする瑞象を現す鳥だと大変に喜ばれ、その後、天日鷲命は、開運、殖産の神様として全国に祀られ、この浅草にも祭祀される様になりました。下って日本武尊が東国遠征に当たり、戦勝を祈願し、凱旋してから社前に熊手をかけて戦勝を祝い、お礼参りをしましたが、その日が11月の酉の日であった事から、鷲神社の祭日とされる様になったと云われます。鷲神社は江戸時代には鷲大明神社と呼ばれ、隣の長国寺と神仏混淆で、長国寺の住職が別当を兼ねておりましたが、明治に入り神仏分離され、鷲神社と改称されて、境内地も別々に定まりました。

道引長太郎地蔵尊

(みちびきちょうたろうじぞうそん)
道引長太郎地蔵尊

道引長太郎地蔵尊とは、50年前につけられたもので、道引きとは引導に通じ、地蔵尊を信仰すれば機縁に恵まれ、長太郎地蔵尊は元禄時代から存在し、浅草旧日並記の記述に「馬場尻地蔵」と記されていることから、馬場の世話役男衆の死を弔うために立てられたのではという。もしくは、「犬公方」で知られる五大将軍網吉が、「生類憐令」を出した矢先に、忠運僧正は部下の長太郎に命じて、狂犬を集めて隅田川に流してしまい、忠運僧正は即座に身を隠したが、長太郎は自殺したものと思い、自らも自殺してしまい、それを弔うためという2つの説がある。

宮戸座跡之碑

(みやとざあとひ)
宮戸座跡之碑

昭和34~39年にかけて、NHK朝の人気テレビドラマで放送されていた、「おていちゃん」でお馴染みの宮戸座。今では当時の芝小屋を感じさせるものはなく、大正震災後、区画整理が実施され劇場あとの番地も幾つかに別れてしまった。歌舞伎芝居を上演していた常設の芝居小屋、宮戸座は、明治29年9月に開業され、新派の俳優で興行したこともあり、ほとんどの俳優が宮戸座の舞台をふんでいるといわれるほど、多くの俳優が巣立っていった。それにちなんで、別名、出世小屋ともいわれていたという。宮戸座跡之碑は昭和53年6月24日に建てられた。

浅草富士浅間神社

(あさくさふじせんげんじんじゃ)
宮戸座跡之碑

毎年7月1日の富士山開きで有名な浅間神社は、地元人からは通称「お富士さん」で通っており、江戸時代に富士山信仰が盛んになったことから付けられている。富士山に来られない人にも富士参りをさせようということから、各地に富士浅間神社が広がり、浅草富士浅間神社も静岡県富士市から元禄年間に分社したものだ。創建年代は不明だが、江戸時代初期の寛文11年までには祭られていたらしいといわれている。本殿は、平成9年~10年の改修工事により外観だけ新たに漆喰塗りがほどこされたが、内部には明治11年に建築された土蔵造りの本殿が遺されている。現在の鎮座地は約2mほどの高みを成し、神体として木造木花咲耶姫命坐像が安置されている。富士山への信仰に基き勧請されたこの神社は、一派による祭りが行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として各所の富士へ参る団体達の尊宗を集めた。富士山の山開きにちなんだ祭日は、毎年5月31日、6月1・30日、7月1日の年4回ですが現在は6月最終土日と7月最終土日に植木市が出て、浅草年中行事のひとつとなっている。植木市ができたのは、明治の中頃からだといわれているがはっきりとはしていない。

猿若三座

(さるわかさんざ)
猿若三座

道の両側に芝居小屋が軒を連ね、多くの見物客で賑わっている、当時の猿若町芝居小屋の繁昌を物語る浮世絵が広重にある。猿若町芝居小屋は、天保末期から明治にかけて猿若町にあった。猿若三座とは、中村勘三郎の中村座、市村羽左衛門の市村座、のちに森田座となった河原崎座が、水野越前守の天保改革により日本橋から猿若町1~3丁目へ移され、この3つを称して付けられた。別称、江戸三座ともいわれていた。江戸歌舞伎興隆の場となり、芝居町をつくったのは日本でも初めてということから、三座にちなんで猿若町という町名まで生まれた。

待乳山聖天

(まつちやましょうてん)
待乳山聖天

正しい名称は待乳山本龍院という。毎年恒例の大根まつりには多くの信仰者が訪れ、境内の至る所に大根と巾着を組み合わせた、健康増進などをあらわす聖天信仰に通じるというマークがある。創建は不明だが、本堂は震災などにあい、昭和36年に再建され、鉄骨鉄筋権現のつくりなどは旧本堂を模している。昔は待乳山の手前には隅田川が流れ、山谷堀や東都随一を誇る眺望の名所として知られていたが、現在ではその眺めも半減してしまった。しかし、江戸末期につくられた長さ25mにも及ぶ築地塀など、昔をしのばせるものも少なからず残っている。

平成中村座跡地

平成中村座跡地

平成12年11月3日初日-26日千穐楽「隅田川続俤」(すみだがわごにちのおもかげ)「法界坊」を開催しました。中村勘九郎丈が中村座ゆかりの地にすみ切り銀杏を平成中村座として復活、連日満員のテント歌舞伎は成功をおさめました。翌年にも同じ場所で開催。

今戸神社

(いまどじんじゃ)
今戸神社

昔、今戸は今之津といわれており、昭和27年7月に隣地にあった白山神社を合祀して、今之津八幡から今戸神社に改名された。かつての境内はとても広く、数多くの樹木が生い茂り、散策にも格好の場所とされていた。しかし、大正の震災と昭和の戦災で一帯が焼失してしまい、以前の美しい姿はどこにもなく、すっかり荒れ果てた地と化してしまった。昭和46年、本殿を復興。社殿前には、文化文政に今戸焼職人達が奉納した狗犬一対があり、境内には浅草名所の七福神の福禄寿が安置されている。毎年6月の第一土曜日には祭例も行われる。

今戸焼

(いまどやき)

浅草の今戸周辺でつくられたことから、今戸焼という名がついた。今戸焼は、決して高級な焼物ではいが、江戸庶民の生活に慣れ親しんだ素朴な味のある焼物だ。いつ頃から始められたのかは未明だが、天正年間に下総国千葉氏の家来が今戸などに移り住んで、土器などを焼いたのが始まりという一説が伝えられている。今では、白井靖二郎さんただひとりが焼いているだけにしまったが、招き猫、タヌキ、猿など、江戸庶民の生活が伺える様々な焼物は、懐かしさを感じさせる。狐などは玉姫神社で、願掛けに使われているそうだ。

花の碑

(はなのひ)
花の碑

今でも多くの人々に名曲として歌われている「春」は、武島羽衣が作詞、滝廉太郎が作曲を担当している。この歌碑には、羽衣の自筆による「春」の歌詞が3章まで刻まれており、昭和31年11月3日に教え子によって建てらた。石は根府川の自然石が使われている。武島羽衣は、明治5年に日本橋で生まれ、本名は又次郎という。東京帝国大学国文科を卒業し、上田萬年の指導を受け、現在の東京芸術大学音楽部の教授となった。同時に国文学者、歌人、詩人でもあり、同校の助教授だった滝廉太郎が曲をつけ、明治33年に「花」が完成された。

山の宿の渡し

(やまのじゅくのわたし)
山の宿の渡し

吾妻橋上流約250m 隅田公園の浅草側にある山の宿の渡し、別名枕橋の渡しなど、浅草から対岸の本所や向島方面などにも数多く見られる。渡船創設年代は不明だが、対岸の枕橋上流隅田河岸は江戸中期頃から墨提と呼ばれ、行楽地として賑わい桜の季節は特に人手が多く山の宿の渡しはそれらの人を墨提に運んだであろう。

竹屋の渡し

(たけやのわたし)
竹屋の渡し

隅田川には有名な渡しが幾つもあり、10人の乗客を乗せた船が、両岸を何往復もして橋ができるまで多くの人々に盛んに利用されていた。隅田公園の中に竹屋の渡し跡碑がある。竹町の渡し、または花川戸の渡し、業平らの渡しなどと呼ばれていた。女主人が対岸の船を呼ぶ掛け声の、「竹ヤー」は山谷掘の船宿竹屋からとったもので、その声の美しさは有名だったとか。

隅田川の船遊び

江戸の夏はことにしのぎにくいといわれ、庶民にとって手軽に涼をとる方法といえば、もっぱら縁台にウチワであったが、一寸お金を出せば「隅田川で川遊び」という消夏法もあった。といっても、ただ船に乗って川を渡る程度から、美女をはべらせて三味線入りという贅沢なものもまでピンキリ。船はやや大型で屋根つき、周囲が戸や障子で閉められる水上料亭「屋形船」、それよりやや小型で簡素化された「屋根船」、二挺の櫓が猪の牙のように見える「猪牙船」(ちょうきぶね)などがあり、墨田川べりの柳橋や両国付近には船宿や料理屋が多く、この辺りを基地に川へ出たらしい。

姥ケ池碑

(うばがいけひ)
姥ケ池碑

姥ケ池は昔隅田川に通じた大池で、明治24年に埋め立てられた。姥ケの池の伝説は、浅草寺本堂に展示してある大きな絵馬の「一ツ家」にも描かれている。浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいて、道行く旅人を家に泊めてはその頭を叩き殺していた。それを知った浅草観音は旅人に変身してその家に泊まり、老女は例によって旅人をしとめるが、なんと殺したのはわが娘であった。なげき苦しんだ老女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。その池は花川戸公園辺りに位置し、園内には人工の池が作られ、碑もおかれている。

助六歌碑

(すけろくかひ)
姥ケ池碑

「助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり」団洲、の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮亳したもの「団洲」は団十郎の雅名である。歌碑は明治12年(1879)九世市川団十郎が中心となり、日頃から世話になっていた日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して彦兵衛の菩提寺仰願寺(清川1-4-6)に建立したが、大正12年の関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが後に発見しこの地に再造立された。

九品寺大仏

(くほんじだいぶつ)
九品寺大仏

この大きな銅像の阿弥陀如来座像は「九品寺大仏」の名で親しまれており、明暦3年(1657)の大火で亡くなった人々の菩提を弔うため、九品寺第2世住職職天誉が江戸市民の浄財を募って万治3年(1660)に造立した。

嬉の森稲荷

(うれしのもりいなり)
嬉の森稲荷

伝承によれば、江戸時代浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池そばの嬉の森に祀られていた。嬉の森は、小さな丘で木や竹が生い茂っていたという。名の由来は明らかではないが、一説に、入り江に面した花川戸のこの森が舟の着くための目標となったことからこの名が起こったものであろうとされている。

三囲神社

(みめぐりじんじゃ)
三囲神社

伝説では中世の創建とされていますが、現在の社殿は安政年間の建築とされ、六百年ほど前の文和年間、近江国三井寺の僧源慶(げんけい)が東国を巡礼していた途中、隅田川のほとり、牛島のあたりを通りかかると、荒れ果てた小祠を見つけ、農夫にその由来を尋ねると弘法大師ご創建の由緒ある祠であると聞き。源慶はそのさまを深く悲しみ、自ら再建に着手しようとして地面を掘ったところ、白きつねにまたがった神像が納められた一つの壷が出て来ました。そのとき、どこからともなく白きつねが現われ、神像のまわりを三度めぐって、消え去りました。この故事から「みめぐり」の名が起ったと伝えられております。境内には、宝井其角(きかく)「雨乞いの句碑」があり。「此御神に雨乞する人にかわりて遊ふ田地(夕立)や田を見めぐりの神ならば 晋其角」と刻まれています。元禄六年(1693)は春から非常な干ばつで、附近の農民は三囲の社頭に集まり、雨乞いをするばかりでした。そこへ通りかかった芭蕉門下第一の高弟といわれる俳人・宝井其角が、雨乞いする村人にかわって、「夕立や」と発句したところ、翌日から雨が続き、農民の苦難は救われたと伝えられています。こうしたことから三囲神社を俳諧の霊場と呼ぶ人もいるようです。境内には、この雨乞いの句碑をはじめ西山宗因、富田木歩など多くの句碑があり、境内の一社に鎮座する大国・恵比寿の二神は、もと越後屋(現在の三越)にまつられていた本像です。

長命寺

長命寺

三代将軍家光が鷹狩りの折り腹痛を起こしたが、ここの井戸水を飲んでだところおさまったことから長命水と名づけられ、後に長命寺と呼ばれ、境内には長命水の石組みが残っています。長命寺は雪景色が美しく風情があったことから、雪景色を詠んだ松尾芭蕉の「雪見の句碑」「十返舎一九の狂歌碑」をはじめ沢山のの石碑が群立しています。弁財天を祀った寺で、江戸時代から続く近くの長命寺桜餅は墨堤の桜の葉を使った当時のヒット商品でした。歌舞伎の小道具として法界坊にも出てきますね。

浅草見附跡碑

神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つ浅草橋の浅草御門が浅草見附と呼ばれ、寛永13年(1636)に作られ江戸防衛の要でもありました。明暦3年(1657)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出した。こうした悲しい出来事もあったが、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも浅草御門付近であります。現在は橋のたもとに碑が立てられている。

木母寺

もくぼじ

木母寺は中世の「梅若伝説」ゆかりの寺で開基は古く、天台宗東叡山に属する寺で、貞元年間(976~78)の草創とされています。平安中期、京都北白川に住む吉田少将惟房の子「梅若丸」が陸奥の藤太という人買いにさらわれ、東北に連れて行かれる途中病気になり、隅田川のほとりで「たずね来て とわばこたえよ みやこどり すみだ河原の露と消えぬと」を詠み、十二歳で亡くなりました。居あわせた天台宗の高僧忠円阿闍梨が幼梅若丸のために塚を築き柳の木を植えて供養したといいます。この悲話は謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄などにうたわれ、戯作や小説にもなって多く人の涙を誘いました。境内には梅若塚をはじめ、浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑、高橋泥舟の筆になる落語家三遊亭円朝の建碑「三遊塚」、山岡鉄舟の揮毫等の有名な石碑も多く、広重の浮世絵にも木母寺の裏に隅田川から流れが入り込んでいる、内川の様子が描かれている。「梅若伝説」は対岸の妙亀塚とついをなすお話であります。

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