名所旧跡

浅草神社周辺

浅草神社周辺

(あさくさじんじゃしゅうへん)
浅草神社周辺
浅草神社-三社様(あさくさじんじゃ)

浅草寺の観音様が浅草浦で網にかかり見つけた兄弟、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)と、それを尊い聖観世音菩薩の尊像と見てお祀りした土師仲知(はじのなかとも)の三人をお祀りしてあるのが、「三社権現社」今では浅草神社と呼びます、入口の石造りの大鳥居は明治18年氏子中により寄進され、建築様式は江戸時代初期の代表的な権現造りの本殿は三代将軍徳川家光公が慶安2年(1649)に浅草寺本堂と同時に建て、戦災を免れて現存しており、本殿及びに弊殿と拝殿は渡り廊下で繋がり、朱漆仕上げとなっている。「重要文化財指定」。三社様で親しまれる浅草神社の大祭は毎年5月の18日に近い土日に執り行われ、本殿右手の神輿蔵に安置された、一之宮・二之宮・三之宮の三体の本社神輿は三社祭りのクライマックスを飾る日曜日、早朝6時に宮出しをして氏子四十四ヶ町を三体が東西南三方に分かれ渡御されます。

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二天門-浅草寺東門(にてんもん)

本来は浅草「東照宮」の随身門であり、俗に「矢大神門」とも呼ばれていた、切妻造り、八脚門様式で元和四年(1618)東照宮を浅草寺境内に勧請した際、建てられた門、重要文化財指定。浅草寺には日光の東照宮と同時に東照宮が造られ、参拝のためにこの門が建てられたが、寛永19年(1642)浅草東照宮は焼失、この門と石橋(しゃっきょう)だけが残った。明治の神仏分離の際、鎌倉鶴岡八幡宮の「経蔵」にあった「四天王」のうち二天を奉安し「二天門」と称したが、戦時中修理先で焼失、現在の「増長」「持国」の二天像は、上野寛永寺の厳有院(四代将軍家綱)霊廟から拝領したものである。

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ご神木「槐」の木の由来(ごしんぼく「えんじゅ」)

槐は中国原産の豆科の落葉高木で、高さは10mにもなる。初夏黄白色の蝶形の花を付け、中国では記念樹として植えられるが、日本では街路樹などにも多く植えられている。浅草寺境内の槐の木は、枯れては生えているので絶えることがないそうだ。浅草寺のご本尊の聖観音菩薩は推古天皇の頃、漁師であった檜前浜成・竹成兄弟により網得されて川辺の槐の木の切株に安置されたが、土師仲知が自宅内に堂を設けて観音様をお祭りしたのが浅草寺の起こりだと伝えられている。また、仲知達の子孫が3人を神様としてお祭りしたのが三社権現社である。

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浄水盤(石造)(じょすいばん)

安永6年(1777)御開帳時の臨時消防班の奉納。「随身門前」と刻まれている。

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蕋雲女史(ずいうん)の人麿歌碑

新吉原の遊女粧太夫は教養高く、蕋雲の号を儒者亀斎より受け、文化13年(1816)万葉仮名で人麿の歌を自筆した。浅草神社境内には、山東京伝書案之碑・義太夫の津賀太夫碑をはじめ、由緒深い石碑が幾つも立っている。なかでも遊女、自らが書いた力強い筆使いに、人麿の明石の浦の歌を刻んだ石碑は全国でも珍しいといわれている。江戸時代は文化年間、新吉原半松楼の遊女粧太夫は、当時の儒学者である亀田鵬斎から「蕋雲」の号をもらうほど学識豊で教養高い名妓だった。そのほか実技流をとなえていた中井敬義について書道を学び、和歌をこよなく愛していた。また、当時は、かつて熱心に信仰していた人麿社という柿本人麿をまつったものもあったという。

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久保田万太郎の句碑(くぼたまんたろう)

「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」と刻む。万太郎は浅草出身。昭和40年建立。

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川口松太郎の句碑(かわぐちまつたろう)

「生きるということは、むずかしき、夜寒かな」と刻む。昭和62年建立。明治32年10月1日に浅草今戸に生まれ、小学校卒業後、洋服屋や質屋の小僧をはじめ、警察署の給士、そのほか幾つかの職業を経たのちは作家人生であった。昭和60年6月9日(享年85歳)、東京女子医大で永眠するまで終世の師、久保田万太郎の傍らに建つのが川口松太郎句碑である。句碑には、「生きるこということむずかしき夜寒かな」と刻まれており、昭和62年6月9日に建立されたものである。また、昭和10年第1回植木賞受賞の代表作「鶴八鶴次郎」をはじめとして、文壇劇壇に多大な跡を記し、その後も数々の名作を残している。

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市川猿翁の句碑(いちかわえんおう)

明治21年5月10日、浅草千束町2丁目に、父・喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助~段四郎)、母・古登の長男として生まれる。兵役を終えたのち、明治43年10月に、22歳で二代目市川猿之助を襲名。その後、昭和37年5月に孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名する。その時に詠んだ句は、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ」とある。また、昭和39年6月の東京書房刊の「猿翁」にも、猿翁による句が掲載されている。そして、昭和38年5月に歌舞伎座で襲名興行を行い、その1ヶ月後に聖路加病院にて心不全のため死去。享年75歳。昭和42年建立。

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花塚の碑(はなづか)

花道「濁流」の祖・笠翁斎乱鳥翁の碑。文化元年(1804)建立。文化元年、「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ門人達によって一周忌に建碑された。笠翁斉乱鳥は、享和3年7月晦日に享年88歳で死去。浅草本然寺(曹洞宗・現、浅草3-25-3)に埋葬されたが、戦後の昭和31年に観音堂裏手東北より移転。乱鳥の弟子の平石氏によれば、文化元年3月17日に、かの翁の親しき友人や門人達が集まって瓶に花を手向けたが、その花のはかなさを惜しむと共にはた翁の名を後世まで残さんと、浅草寺の大ひさのみ堂のうしろ清らかなる所にその花を埋めて花塚と名付けたとある。

江戸・東京の農業 檜前の馬牧(ひのくまのうままき)

宝元年、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため天皇の命令により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が作られた。大宝律令の制度により土地は全て国のものであり、これを6歳以上の農民に分けて耕させていた。東京には3ヶ所の馬牧・牛牧があり、檜前の馬牧は浅草に置かれたのではないかと、浮嶋の牛牧は本所に神崎の牛牧は牛込に置かれたとされている。その後、江戸時代になると浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道、など浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになった。

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河竹黙阿弥顕彰碑(かわたけもくあみ)

河竹黙阿弥は江戸時代後期から明治中期にかけての歌舞伎の狂言作者。東京百年記念に台東区が建立。

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中村吉右衛門の句碑(なかむらきちえもん)

「女房も同じ氏子や除夜詣」の句を刻む。昭和28年建立。初代中村吉右衛門(実名、波野辰次郎)は、明治19年3月24日に浅草に生まれた。幼少より舞台に立ち名声を得て、その後、大正から昭和期を代表する歌舞伎俳優となった。高浜虚子に俳句を学び、「ホトトギス」の同人となり、3冊にも及ぶ句集も残されている。初めに秀山を号し、のちに吉右衛門の名を用いた。「女房も同じ氏子や除夜詣」というこの句は、昭和14年の冬に詠まれたものである。妻の千代も浅草の生まれで、この句は曲縁でもある。句碑が建てられたのは昭和28年4月21日で、享年68歳で死去するまでに、文化勲章を受章している。

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花柳壽輔の句碑(はなやぎじゅすけ)

「雷は田町をよけて鳴りわたる」の句を刻む。昭和44年、花柳寿応氏の建立。文化4年2月19日、芝、新明で生まれる。明治36年1月28日、83歳でその生涯を終えるまで、花柳流の祖として、又、振付の第一人者として偉業を成した。6歳で四世西川団十郎の御眼鏡にかない、市川鯉吉の芸名で舞台を踏む。そして19歳の時、旧師である西川扇蔵の許に復帰し、西川芳次郎として振付師の第一歩を踏み出した。25歳、吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」の二文字を与えられ、以後、花柳芳次郎と名乗る。そして29歳の時、初めて花柳壽助を名乗り、のちに「助」を「輔」に改めた。 「茨木」など不滅の傑作と絶賛される作品の残している。

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竹本津賀太夫の碑(たけもとつがだゆう)

「大江戸のつよきひいきの力にぞ、かかる千曳のいしぶみはたつ」と刻まれ、台石には百数十名の門下の名が列記されている。文政10年(1827)建立。

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菅沼定敬の歌碑(すがぬまさだちか)

「敷島のみちにはせきもあらなくに、なとてこころのとほらざる覧」と刻まれている。嘉永3年(1850)建立。

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並木五瓶の句碑(なみきごへい)

「月花のたわみころや雪の竹」と刻まれており、側面に「なにはづの五瓶、東武に狂言を出して、あまねく貴賤の眼目を驚かし・・・」と狂言作者五瓶を篠田金二が讃えた言葉が彫られている。寛政8年(1796)建立。並木五瓶は延享4年に大阪で生まれた。はじめの五八からその後、吾八、呉八、五兵衛と次々に改め、さらにそののちに五瓶と改める。寛政6年に江戸へ出て、歌舞伎狂言作者として活躍した。初代桜用治助と共に江戸の2大作者と謳われ、時代物、世話物に優れた作品が遺っている。文化5年、死去まで数多くの作品があり、代表作には「金門五山桐」、「隅田春奴七容性」、「富岡恋山開」、「幡随院長兵衛」などがあり、四代市川田蔵、四代松本幸四郎らにより演じられた。碑面には、正面から裏面にまで文字が刻まれている。

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山東京伝机塚の碑(さんとうきょうでん)

京伝は宝暦11年~文化13年(1761~1816)まで活躍した文人で江戸時代後期の戯作者。「書案之記」とあり、京伝が愛用した文机がこの下に埋めたと弟の京山がしるしている。京伝の文才は天下一品ことに吉原にちなむ洒落本は有名。妻君は先妻、後妻とも吉原のなじみの遊女、吉原が明るいわけであります。他にも浮世絵を描いたり家庭薬まで売るという才人であった。この碑は1817年に弟の京山が建立。刻まれた字は戦火を受けて読みにくいが、晩年の京伝作「書案之紀」はよく見てとれる。そこには京伝の歌と共に、京伝が50年近くにわたって愛用した机で、百部を越える戯作を生んだことが記してある。ちなみに書案とは机の事。また、裏面には京伝と親睦の深かった戯作者、太田南畝の撰による京伝の略歴が刻まれている。文化14年(1817)の建立。

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被官稲荷(ひかんいなり)

新門辰五郎の妻女が、安政元年重病で床に伏した時、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その甲斐あって病気がすっかり治り、お礼の意味を込めて安政2年に伏見から祭神を当地に移し、祭り小社を創建して被管稲荷社と名付けた。名の由来は不詳だが、「被官」官位を授かるというので「出世」を祈願する人が多い。社殿は一間社流れ造り、杉皮葺。間口約1.5m、奥行約1.4mと小さいが、覆屋を備えて保護しているのが珍しく、覆屋は大正期の建築だろうという。また、新門辰五郎とは、上野へ行く新門を造り、門人を命じられたことから名付けられた。

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